Masukゆっくりと、噛みしめるように言う。 まるで、自分でも今ようやく本当の意味で理解したことを、言葉に乗せているみたいに。 リリアーナはその言葉を、しばらく胸の中で反芻した。 正しい判断。 正しい愛し方。 前世の彼は、たぶん前者しか見ていなかったのだろう。 家を守る。 敵を増やさない。 感情を見せない。 妻を表向きの弱点にしない。 その全部は、侯爵としては理にかなっていたのかもしれない。 でも、妻である自分は人間だった。 体面では生きられない。 必要な敬意だけで満たされるわけでもない。 熱を出した朝に欲しいのは薬だけではなく、そこにいてくれる気配だった。 夜会のあとに欲しいのは、完璧な護衛ではなく、「大丈夫か」の一言だった。 その違いを、ようやく彼は理解したのだ。 遅すぎる。 どうしようもなく。 でも、理解したこと自体は嘘ではないと分かる。「今さらね」 ぽつりと呟く。 その一言の中に、責める気持ちも、諦めも、そして少しだけ切なさも混じる。「ああ」 「今さら、そんなこと言われても」 「分かっている」 「私は前の私を、もう取り戻せない」 「……」 「あの頃の私は、あなたが庇ってくれているなんて知らなかった」 「……」 「敵がいることも、家の中が腐っていることも」 「……」 「ただ、愛されていないと思っていた」 「……」 「それが、私の現実だったの」 セドリックの喉が小さく動く。 それが苦しいのだろう。 でも、苦しいだけでは足りない。 ちゃんと見てほしい。 自分がどんな現実を生きていたかを。「私は、あなたの“正しい判断”の外側で、ずっと一人だった」 「……ああ」 「それを、あなたは守るためだと思っていた」 「……」 「ならやっぱり、ひどい人よ」 そう言うと、今度はセドリックがほんのわずかに口元を歪めた。笑ったわけではない。苦く、自嘲するような、ほとんど笑いにすらならない動きだった。「否定できない」 「否定してほしいわけじゃないわ」 「……」 「ただ、分かってほしいだけ」 「何を」 「理屈が正しくても」 「……」 「私は救われなかったってことを」 その一言に、彼は深く頷いた。 前世なら、その頷きも見えなかっただろう。 見ていても
その言葉に、リリアーナは毛布の上で指先を強く組んだ。 狙われやすい。 弱点。 標的。 そういう言葉で、自分が前世にどんな位置へ置かれていたかを、今さら明確に聞かされる。「婚約の段階で、既に君の実家は侯爵家の名をどこまで利用できるかを探っていた」 「……」 「母も、君を気に入ってはいなかった」 「知ってるわ」 「知っていた」 「だから?」 「私は、表立って君を庇えば庇うほど、君へ標的が集中すると判断した」 その一言は、ずっと胸のどこかで予感していた種類の答えだった。 守るため。 見せないため。 弱点にしないため。 きっと、そういう理屈はあったのだろう。 そして、それは完全な嘘ではない。侯爵家ほどの家なら、表に出る感情ひとつが交渉材料になる。妻への執着が見えれば、そこへ刃が向く。前世のリリアーナにだって、それくらいの理屈は分かる。 分かる。 でも。「だから、何も言わなかったの」 「……ああ」 「熱を出しても」 「……」 「夜会のあとも」 「……」 「お義母様が私を削る時も」 「……」 「全部、“標的を集中させないため”?」 その問いに、セドリックはすぐには答えなかった。 彼の沈黙は、今はもう単なる逃避には見えない。 けれど、沈黙が人を傷つけることを、二人とも知っている。「最初は」 ようやく落ちた声は低かった。「最初は、本気でそう思っていた」 「最初は?」 「公の場で距離を取る。必要以上に側へ置かない。妻としての権限は与えるが、特別な感情は見せない。それが一番安全だと」 「……」 「実際、最初のうちはそれで何人かの目は逸れた」 「……」 「だから、正しい判断だと思った」 正しい判断。 その言葉の冷たさに、リリアーナはふっと笑いそうになった。 もちろん愉快だからではない。 前世の自分を形容するのに、なんて乾いた言葉を使うのだろうと思ったからだ。「正しい判断」 「……」 「それで私は、一人だったわ」 セドリックの目が、わずかに揺れる。「知っている」 「知っていた、でしょう」 リリアーナは言い直した。「当時から」 「……ああ」 「じゃあ、いつから気づいていたの」 「何に」 「その“正しい判断”が、私を孤独にしていたことに」 問いは静かだった
夜が明けたあとも、リリアーナの胸の奥には、前夜の涙の熱がそのまま残っていた。 泣いたあとの朝は、いつも少し変だ。まぶたは重く、頬の皮膚は薄く張りつき、喉の奥にはまだ泣き声の擦れが残っている。鏡の中の自分は、腫れをどうにか抑えたつもりでも、よく見れば一目で分かる顔をしていた。誰かに「昨夜は眠れましたか」と尋ねられたら、その瞬間に崩れそうな顔。 けれど、それでも朝は来る。 侯爵邸の朝は、前世と同じように静かだった。 磨かれた廊下。 遠くの食堂からほとんど音を立てずに運ばれる銀器。 暖炉に足される薪のかすかな音。 窓の外で、枝先を揺らす春前の風。 美しく整っているのに、どこか人の体温が薄い。 前世のリリアーナは、その静けさが怖かった。 今のリリアーナは、その静けさの意味を少し知っている。 整えられたものは、時に守りでもあり、時に人を孤独にする檻でもある。 朝一番に運ばれてきたのは、薄いスープと、柔らかく煮た果物、それに蜂蜜を落とした薬湯だった。エマは何も聞かず、ただ主人の手元へそれらを静かに整える。昨夜、どれほど泣いたかも、何を聞いたかも、踏み込まずにいる。その慎重さがありがたく、同時に、余計に涙を誘いそうだった。「少しだけでも」 エマがそう言って、スープの匙を手元へ寄せる。 リリアーナは頷いた。 昨日よりは、食べなければいけない気がした。 体を起こしておかなければ、きっと今日の話を最後まで聞けない。 話。 そうだ。まだ終わっていない。 前夜、セドリックは「最初から愛していた」と告げた。 リリアーナは泣いた。怒った。 知っていたなら生き方が変わっていた、と嗚咽した。 でも、それで全部が尽くされたわけではない。 どうして言わなかったのか。 どうしてあんな十年になったのか。 そこにはまだ、彼が口にしきっていない部分があると分かっていた。 愛していた。 でも黙っていた。 その間に何があったのか。 そこを聞かなければ、きっと前へ進めない。 スープをひと口飲み込む。 温度が喉を通る。 玉ねぎの甘みと少しの塩気。 ちゃんと味が分かる。 それだけで、少しだけ現実へ戻ってこられる気がした。「お嬢様」 エマが静かに言う。「侯爵様より
それは、ずっと胸の底にあった言葉だったのだろう。 口にした瞬間、自分でもそれが本当の核心なのだと分かった。「知っていたら」 「……」 「私は、あんなふうに……っ」 「……」 「ただ黙って削られていくだけじゃ、なかった……!」 嗚咽でうまく繋がらない。 けれど、言葉は止まらなかった。「知っていたら、夜会のあとで、何も言わずに一人で寝室へ戻らなかった……!」 「……」 「熱を出した朝に、来てくれないことを“当然”だと思わなかった……!」 「……」 「食べられない日も、ただ笑ってごまかしたりしなかった……!」 「……」 「お義母様に削られても、実家に押されても、私……っ」 「……」 「私、もう少し違う生き方ができた……!」 最後の一言は、もうほとんど泣き声だった。 知っていたら、生き方が変わっていた。 それは、単に気持ちの話ではない。 自尊心の持ち方。 助けの求め方。 耐え方。 怒り方。 絶望の深さ。 全部が違っていたかもしれない。 愛されていないと思いながら生きるのと、言葉にされなくても愛はあったのだと知って生きるのでは、同じ十年でも重さが違う。 それなら、あの夜の立ち位置も、あの選び方も、あの死に方ですら、変わっていたかもしれない。 それを今さら知ることの、どれほど残酷なことか。 セドリックは一歩も動かなかった。 近づいてこない。 触れようともしない。 慰めも差し込まない。 前なら、その距離にまた怒ったかもしれない。 けれど今は、それがせめてもの礼儀だと分かった。 今ここで触れられたら、きっと本当に壊れてしまう。「……ああ」 やがて、ひどく低い声が落ちた。「そうだ」 「……」 「君の生き方を変えてしまうはずの言葉だった」 「……」 「それを、私は与えなかった」 「……」 「そのことを、死んでから知った」 その“死んでから”に、また胸が痛む。 あなたは私が死んでから知った。 私は死ぬまで知らなかった。 その差が、どうしようもなく悲しい。「だから許さない」 涙に濡れたまま、リリアーナは言った。「……」 「愛していたなんて」 「……」 「そんなこと、今さら言われて、簡単に優しくなれるわけない」 「分かっている」 「私の十年は、あな
その問いが出た瞬間、セドリックの目がわずかに動いた。 逃げたいのではない。 だが、そこがいちばん深い傷なのだと分かる反応だった。 彼はしばらく黙っていた。 その沈黙の長さに、リリアーナの胸はまた少し冷える。 やっぱり言わないのか。 結局そこだけは、また曖昧にするのか。 そう思いかけた時だった。「最初からだ」 低い声が、唐突なくらいはっきりと落ちた。 最初から。 リリアーナは一瞬、意味が分からなかった。 分からなかったというより、分かってしまうのが怖くて、頭がわざと遅れた。「……何が」 「君を愛していた」 その一言で、部屋の空気が変わった。 外の剪定鋏の音も、窓辺の光も、炭火鉢のかすかな熱も、全部がひどく遠くなる。耳の奥が一瞬だけ白くなったような感覚。 愛していた。 前世で。 最初から。 その言葉は甘くなどなかった。 むしろ、残酷な刃そのものだった。 リリアーナの手が、膝の上で強く組まれる。爪が手袋越しに食い込む。喉の奥が急に焼けるように熱くなった。「……やめて」 声は、思ったよりずっと弱かった。 やめて。 そう言ったのに、彼は止まらなかった。「初めて会った時から」 「やめて」 「婚約が決まるより前から」 「やめてって言ってるでしょう!」 ほとんど叫びに近い声が出た。 リリアーナは自分でも驚いた。 こんなにすぐ感情があふれるとは思わなかった。 セドリックはそこでようやく口をつぐんだ。 けれど目は逸らさない。 そのことが、余計に残酷だった。「……そんなこと」 唇が震える。 胸の奥が、怒りと悲しみで一度に膨らむ。 どうしてそんなことを言うの。 今さら。 今、ここで。「そんなこと、聞きたくなかった」 嘘だった。 聞きたくなかったわけではない。 知りたかった。 でも知ったら壊れると分かっていたから、聞きたくないふりをしていただけだ。 セドリックは静かに言った。「だが、言わなければならないと思った」 「なぜ」 「昨夜、止められたからだ」 「……」 「前世で最初から愛していたと」 「……」 胸が、ひどく痛い。 その“最初から”が、思っていた以上に鋭いからだ。 最初から。 なら、あの十年は何だったの。 何を見てい
夜が明けても、客間の空気は少しも軽くならなかった。 前夜、セドリックが去ったあと、リリアーナは一度も深く眠れなかった。目を閉じれば、彼の声が耳の奥に残る。 君が死んだ夜。 全部、壊した。 私の沈黙が君を殺した。 それらの言葉は鋭いのに、叫びではなく、ひどく静かだった。静かだからこそ逃げ場がない。怒鳴られていたなら、まだ反発だけで済んだかもしれない。けれど彼の告白は、まるで凍った刃をゆっくりと胸へ差し入れられるみたいに、少しずつ、確実に痛かった。 窓の外は薄い朝だった。侯爵邸の庭にはまだ朝露が残り、剪定された枝先が白い光を鈍く返している。風は弱い。けれど、窓ガラスの向こうに広がる景色は静かすぎて、かえって現実感がなかった。 寝台の上で身を起こす。掛布の内側は温かいのに、身体の中心だけがひどく冷えている。目元は熱を持って重く、喉の奥は乾いていた。泣いたつもりはない。前夜はちゃんと泣いた。声も少し出した。なのに涙は足りなかったのだろう。今朝も目の奥がじくじくと痛む。「お嬢様」 エマが、いつもより静かな足取りで入ってくる。手には薄いお茶と、小さく切ったパン、それから薬湯の入ったカップ。「少しでも召し上がれそうですか」 「……分からない」 「分からなくても、ひと口だけでも」 そう言って盆を置く気遣いがありがたかった。 何も聞かない。 昨夜、何を話したのかも、どれほど泣いたのかも、踏み込まずにただ主人の体を気にする。そういうやさしさに、前世の自分は何度支えられただろう。 リリアーナはカップを手に取った。薬草の匂いがする。ミントと、少しだけ蜂蜜。温かさが指へ伝わり、ようやく自分の体がここにあるのだと分かる。「侯爵様が」 「……」 その名を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。「お話を、と」 「今?」 「はい。お加減が許すなら、ですが」 「……」 来ると思っていた。 昨夜で終わるはずがないことも分かっていた。 あれだけ言って、あれだけ聞いて、なお中途半端なまま引いたのだ。続きがないはずがない。 なのに、いざその時が来ると、胸の奥がきつく縮む。「断っても、また来るでしょうね」 「……はい」 エマは正直だった。 今のセドリックなら、そうだろう。 前世なら一歩引いた場所で沈黙してい
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







